3. いろはとEとYE

いろはとEとYE

「いろは」は歌ですので、五十音図とは違って仮名の並びにこれと言った法則のようなものは存在しません。そのような「いろは」にも、ア行のえとヤ行のエとの区別を織り込むことは果たして出来るのでしょうか。
 この問題を考えるにはまず、いろは歌に出てくる「え」がア行のえ由来のものか、ヤ行のエ由来のものかを判別し、欠けているのはどちらなのかを明らかにせねばなりません。

 いろは歌で「え」が出てくるのは「けふこて(今日越えて)」という句の中です。この「越える」という動詞は、かつては「越ゆ・越ゆる・越え」と活用していたことから、活用語尾の部分は元はヤ行であったことが分かります。
 従って「けふこえて」の「え」はヤ行のエ相当であり、「いろは歌」に欠けているのは実はア行のほうの「え」である、ということになります。

 では、いろは歌にア行のえを追加するとしたらどこが適切でしょうか。

いろは歌

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

 上の通り、いろは歌というのは基本的に7音節の句と5音節の句との繰り返しによって出来ています。七五調と呼ばれる形式です。ただ、いろは歌で使われている仮名は47文字であり、7+5=12の倍数にはなっていません。そのため、「わかよたれそ(我が世、誰ぞ)」のところが字足らずになってしまっています。どうやら一文字足すとしたらここが良さそうです。試してみましょう。

 どれも句として明快に意味をなしているとは言い難いのですが、強いて言えば、「我がえよ・誰ぞ」と「我が世・得たれそ」の2つがかろうじて意味をなさなくもない、というところでしょうか。

「我がえよ・誰ぞ」の場合、「えよ」のところは「1拍名詞『え』に助詞の『よ』が続いている」とする考え方と、「1拍名詞『よ(代・世)』の前に接頭語『え』が付いている」とする考え方との2通りがあります。ところが古語辞典で「え」を調べてみても、該当しそうな1拍名詞も接頭語も見当たりません。
 これが奈良時代であれば、「愛しい」という意味を表す「え」という接頭語がありましたので、「えよ」を「愛世(いとしいこの世)」と考えることもできたかもしれません。しかしいろは歌が出来た時期は、「え /e/」と「エ /je/」の区別が失われた10世紀半ばから、「お /o/」と「を /wo/」の区別が失われた11世紀前半までの間であった可能性が高く、奈良時代の接頭語が紛れ込んでいるというのは不自然さが残ります。
 また他の7音節の句は、「いろは・にほへど」「うゐの・おくやま」「あさき・ゆめみし」といずれも3音節+4音節という構造になっているのに対し、「我がえよ・誰ぞ」ですと4音節+3音節になってしまうのも不利な要素と言えそうです。

 その点、「我が世・得たれそ」のほうは3音節+4音節になっています。
 ただこちらの解釈は「得たれそ」の部分に難があります。助詞の「そ(ぞ)」が活用語の已然形に直接付くのは上代の用法とされているので、先の「愛世」と同じ問題が発生してしまうのです。
 さらには、文意が著しく変わってしまうのもマイナス要素です。オリジナルの「我が世・誰ぞ・常ならむ」なら「この世で誰が永遠でいられようか」のような意味ですが、「我が世・得たれぞ・常ならむ」ですと「この世を我がものとしたからには、これでもう永遠だ」のような意味になってしまいます。オリジナルにあった情緒が台無しです。

 どうやら単純に「え」を挿入するだけではだめなようです。あとは、「わかよたれそ」と「え」の7文字でこの部分の句を作り直すという方法もありますが、前後の句との繋がりを損なわずこれを行うのはかなり大変そうです。
 残念ながら現時点では、「いろは歌には、ア行のえが収まりそうな位置はない」と言わざるを得ません。

 いろは歌にア行のえを入れるとしたら、当面は歌の最後にでも置いておくより他に手はなさそうです。

参考・ア行のえとヤ行のエとを区別した49音いろは

49音いろは・ひらがな 49音いろは・カタカナ

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