京都に関する研究ではしばしば「洛中」「旧市街地」「昔からの市街地域」などの表現が使われますが、具体的にどの範囲がそれに当たるのか、はっきり説明がされている機会はそう多くないという印象があります。
そこでこのページでは古地図を見ながら、京都における市街地の範囲の変遷を検証してみます。
まず比較的新しい時代の資料として、立命館大学地理学教室にて公開されている「現在の都心部の1887年(明治20年)ごろの土地利用」という地図から見てまいりましょう。
鴨川の東西で状況が異なりますので、分けて見てゆきます。
市街地はこの時代、既に上京区の北限まで広がっていたことが分かります。対して市街地の南限は概ね今日の京都駅(地図中、下方のエメラルド色の箇所)付近だったようです。
市街地の西の限りは、二条城の南側は概ね大宮通ないし神泉苑通~壬生川通あたり、二条城の北側はところどころ畑や竹林を挟みながらも千本通を越えるあたりまで人家が広がっていたことが読み取れます。
南のほうは概ね九条通まで人家が広がっていたことが読み取れます。ただし七条~九条間の鴨川縁は「陸田」と分類されていますので、実際の南限は七条あたりで、部分的に町並みが九条付近まで連なっているという感じだったのかもしれません。
対して北のほうは、今の左京区に当たる部分が凡例で隠れてしまっているため、残念ながらこの地図からは市街地の限りが読み取れません。
では幕末頃はどうだったのでしょうか。上の地図から遡ること23年、1864年に描かれた『京都一覧圖畫』を見てみましょう。
これは西山から京都盆地を見下ろすようにして描かれた俯瞰図で、図の左側が北、上が東、右が南となっています。
なお、町を取り囲むようにして描かれているススキ野原のようなものは、豊臣秀吉によって築かれた土居ないしその跡地であろうと思われます。
こうして見てみますと、明治20年の京都も幕末の京都も、市街地の範囲にそう大きな違いは見られません。地図の精度の問題もあるのでしょうが、明治に入ってやや南のほうへ市街地が広がったという程度の変化しかなかったようです。
最後に、幕末からさらに遡ること200年、江戸時代前期の『洛中絵図』を見てみましょう。
これは鴨川の西側のみの地図です。
上京は短い通りが多く、今のどこに当たるかを推定するのが少し難しいのですが、般舟院と上善寺とがこの地図に描かれた位置関係のまま今も千本今出川を上がったところに存在していますので、これを目印にして考えますと、どうやらこの時代、北野天満宮付近にまとめられていた寺社へ至る道(恐らく今の今出川通)に沿って市街が西へ伸びていたようです。
千本通が今出川を上がったあたりから西へ傾き出すのは当時も同じだったようで、この地図では船岡山付近まで寺社が続いています(ただし敷地の裏は野畑)。
鴨川の西側の状況は幕末のそれと大差ないようです。どうやら近世期を通して、京都の市街地の範囲にはそう大きな変化はなかったようです。
京都における「昔からの市街地」の範囲は、概ね次のようであると言えそうです。