京都に関する研究ではしばしば「洛中」「旧市街地」「昔からの市街地域」などの表現が使われますが、具体的にどの範囲がそれに当たるのか、はっきり説明がされている機会はそう多くないという印象があります。
そこでこのページでは古地図を見ながら、京都における市街地の範囲の変遷を検証してみます。
1889年(明治22年)、当時の京都府上京区と京都府下京区とが合併する形で京都市は誕生しました。その頃の市域は次の通りでした。
両図とも黒い線が2015年現在の区域(区の境界線)で、色分けされているところが1889年当時の市域・郡域です。
今日の京都市に比べればかなり面積が小さかったのですが、これでも当時としては、将来のことを見越して広めに市域を確保していたそうです*1。
また街の重心が東のほうへ寄っているのも目を引く特徴です。現在の中京区および下京区の西半分は、この頃はまだ郡部(葛野郡)でした。
この時代にはまだ「上京区」と「下京区」しかありませんでした。鴨川の西側では後に「中京区」が作られたため当時の上京・下京の境界が今では分かりにくくなっていますが、おおよそ現在の東山区・左京区の境界線をそのまま鴨川の西側へ延長させたところが当時の境界線です*2。
先に見た1889年の図はあくまで「当時の京都市の範囲」であり、実際に市街化していた範囲はこれよりも狭いものでした。
明治期の市街地を知るための資料としては、立命館大学地理学教室にて公開されている「現在の都心部の1887年(明治20年)ごろの土地利用」という地図が参考になります。これで当時の状況を確認してみましょう。
(※20210301補註:上記サイトがなくなってしまったようです。別サイトでミラーリングしているところがありましたので、ひとまずそちらへリンクします。時間が出来た時にこの項は書き直す予定です)
鴨川の東西で状況が異なりますので、分けて見てゆきます。
市街地はこの時代、既に上京区の北限まで広がっていたことが分かります。対して市街地の南限は概ね今日の京都駅(地図中、下方のエメラルド色の箇所)付近だったようです。
市街地の西の限りは、二条城の南側は概ね大宮通ないし神泉苑通~壬生川通あたり、二条城の北側はところどころ畑や竹林を挟みながらも千本通を越えるあたりまで人家が広がっていたことが読み取れます。
南のほうは概ね九条通まで人家が広がっていたことが読み取れます。ただし七条~九条間の鴨川縁(当時は紀伊郡)は「陸田」と分類されていますので、実際の南限は七条あたりで、部分的に町並みが九条付近まで連なっているという感じだったのかもしれません。
対して北のほうは、今の左京区に当たる部分が凡例で隠れてしまっているため、残念ながらこの地図からは市街地の限りが読み取れません。同時代の測量資料によれば、今の左京区に当たる地域は西南部のごく一部のみが市街地化していたようです。
では幕末頃はどうだったのでしょうか。上の地図から遡ること23年、1864年に描かれた『京都一覧圖畫』を見てみましょう。
これは西山から京都盆地を見下ろすようにして描かれた俯瞰図で、図の左側が北、上が東、右が南となっています。
なお、町を取り囲むようにして描かれているススキ野原のようなものは、豊臣秀吉によって築かれた「御土居(おどい)」と呼ばれる囲いないしその跡地であろうと思われます。
近年では、この御土居が洛中(京の街中)・洛外(郊外)を分ける基準であったかのように言われることもありますが、この見方は必ずしも正しくありません。実際は囲いの内側でも南西のほうには田畑が広がっていたり、逆に外側でも今の東山区のあたりはかなり早くから市街化したりしていたからです。
こうして見てみますと、明治20年の京都も幕末の京都も、市街地の範囲にそう大きな違いは見られません。地図の精度の問題もあるのでしょうが、明治に入ってやや南のほうへ市街地が広がったという程度の変化しかなかったようです。
最後に、幕末からさらに遡ること200年、江戸時代前期の『洛中絵図』を見てみましょう。
これは鴨川の西側のみの地図です。上が西、下が東(鴨川)です。
上京は短い通りが多く、今のどこに当たるかを推定するのが少し難しいのですが、般舟院と上善寺とがこの地図に描かれた位置関係のまま今も千本今出川を上がったところに存在していますので、これを目印にして考えますと、どうやらこの時代、北野天満宮付近にまとめられていた寺社へ至る道(恐らく今の今出川通)に沿って市街が西へ伸びていたようです。
千本通が今出川を上がったあたりから西へ傾き出すのは当時も同じだったようで、この地図では船岡山付近まで寺社が続いています(ただし敷地の裏は野畑)。
鴨川の西側の状況は幕末のそれと大差ないようです。どうやら近世期を通して、京都の市街地の範囲にはそう大きな変化はなかったようです。
京都における「昔からの市街地」の範囲は、概ね次のようであると言えそうです。
明治以降「京都市」となった「京」は、市街地の拡大に伴って周囲の郡部を編入してゆき、やがて今日のような姿になります。
京都市の場合、後に市内へ編入された地域は、辺り一帯が共通の地名を冠しているのが特徴です(例:下鴨××町、西ノ京××町)。この「○○××町」の「○○」に当たる部分は、たいてい郡であった頃の町名や村名から来ています。
実際には編入後に町名変更や境界変更などが行われた場合もあるため、共通の地名を冠している地域であるか否かをもって、そこが当初からの市域かそうでないかを厳密に区別することは出来ませんが、本来の市域を大体において知る目安とすることは出来ます。
なお方言、特にアクセントに関して「旧市街地」という括りが有意なのは、昭和の半ばぐらいまでに言語形成期を終えた方の場合です。各家庭にテレビがあることが当たり前になった時代に言語形成期を過ごした世代は、程度の差はあってもほぼ確実に共通語化の波を被っていることが考えられますので、内省や研究の際には注意を要します。