今、京都の人に自分たちの言葉をどう思うかと問うたら、たいていの方は、「自分の使てる言葉は愛着あるけれど、さすがに『どす』とか『おこしやす』とか言うのはもっさい感じがする」というようなことを仰るのではないでしょうか。
また他府県の人から「京都では『そうどす』とか『おいでやす』とか言うんでしょ?」と問われたら、たいていの京都人は、「今時あんな言葉づかいする人なんかいいひんで」というような答え方をするのではないでしょうか。
しかし非近畿圏の方がこういった質問をするのは、ほとんどの場合、「うんと言ってもらえたなら、ちょっと生で京言葉を聞かせてもらおう」という期待があるからであって、別にからかい目的や、京言葉をバカにしているからということではありません。
にも関わらず、かのような質問が投げかけられると、多くの京都人がムキになって「あんな言葉、今時誰も使わん」と否定的な態度をとってしまうのは、ある年代以下の京都人の間に「京言葉=もっさい」という卑屈な見方が、すっかり根付いてしまっていることの現れだと言えるでしょう。
しかしこうした「京言葉=もっさい」という考えは、京都人が勝手に思いこんでいるだけの思い過ごしです。
かくいう私も子供の頃は、「そうどす」とか「しますえ」とか言うのはいかにも野暮ったいと感じていたうちの一人でしたが、京都から足を踏み出し、外から京都を見るようになったとき、そうした考えは180度変わりました。
なぜかといいますと、非近畿圏(もちろん東京も含みます)において「京都」というのは一つのブランドのようになっていて、そこでは私がかつて否定的に捉えていた“あんな言葉づかい”も、京の雅やかさの象徴として見なされることが多いのです。
これが「関西弁」ですと、話は少し変わってきます。「関西弁」にはどうしても「お笑い」や「恐い」といったイメージがつきまとうため、「好き」とおっしゃる方と同じ数だけ、「嫌い」や「生理的に受け付けない」とおっしゃる方も多いのが実状です。
つまり「私は京言葉がしゃべれます」というのと、「私は関西弁がしゃべれます」というのとでは、非近畿圏の方に与える印象がかなり違うのです。
そんな状況にあって、せっかく京言葉に興味を持ってくれた人に対し、「今時あんな言葉づかいする人いいひんで」と切って捨ててしまうというのは、相手に失望を与え、京都のブランド価値を下げるだけで、何の得にもなりません。
しかし残念ながら、今京都に住んでらっしゃる方の多くはこうした現実に気づいてないように思えます。
いくら非近畿圏の方から好印象を抱かれようとも、当の京都人が価値を認めていないために衰退する一方の京言葉。何がこのすれ違いの元となっていて、そしてどうすればこれを断ち切り、京言葉の再興へとつなげられるかについて少し考えてみました。
京言葉衰退の背景に「東京言葉こそ模範的である」という風潮が関係してそうだということはこちらの「検証講座」にも書きましたが、そもそもなぜ東京の言葉が模範的とされるのか、まずここから考えてみたいと思います。
こう考えていくと、どうも京言葉衰退の元凶は(3)+(2)にありそうな気がします。
理想を言えば、小学校辺りで「郷土の言葉」という授業でも組んでいただいて、地元の古老の方に教鞭を振るっていただくのがベストなのでしょう。
でもこればかりは個人にどうこうできるものでもないですから、まず個人個人にできることとして、「京言葉の文章を書く」ということから始めるのがベターだと思います。
もちろん公的なものに書くのはさすがにきついでしょうから、当面は私的なものに遊びで書くというスタンスで充分でしょう。
遊びであろうが何であろうが、要はとにかく色んな人が京言葉の文を書くことで、京言葉そのものに対する関心を高めるということが、今もっとも重要だと考えます。
※追補:
これは決して「いつでもどこでも余所の土地へ行った時でも京言葉で押し通すべし」という話ではありません。“郷に入りては郷に従え”の精神は大事だと思います。